子どもの発達障害と向き合う毎日の中で、「今日のあの対応で良かったのだろうか」と、
夜、子どもが寝たあとにひとりで振り返ってしまう。そんな親御さんへ。
この記事は、療育プログラムの手順や専門的な介入方法を解説するものではありません。
発達障害の当事者である私が、「味方であり続けるとはどういうことか」を、自分の経験をもとに考えたものです。
「もっとうまくやれる親がいるのかもしれない」と自分を責めてしまう前に、関わり方の正解を探すより先に、子どもの側に立ち続けるという軸を持つこと。その考え方を、当事者の視点から整理します。
はじめに:これは「姿勢・心構え」についての話です
ここからは、具体的な療育方法ではなく、「味方であり続けるために大切にしたい姿勢」を当事者の視点から考えていきます。
最初に知っておいてほしいことがあります。厚生労働大臣メッセージ(2016年4月2日)では「自閉症をはじめとする発達障害は、親のしつけや教育の問題ではなく、脳機能の障害によるものです」と明記されています(出典:厚生労働省)。
発達障害は、親の関わり方や育て方が原因で生じるものではありません。「自分のせいかもしれない」と、誰にも言えずに抱え込んでいる方に、まず知っておいてほしいことです。
私は発達障害の当事者として、「味方だと感じた関わり方」と「そうでなかった関わり方」の両方を経験してきました。この記事では、その経験をもとに、「味方であり続けるための姿勢」を自分の言葉で伝えたいと思っています。
「正しい対応をしなければ」という焦りを一度脇に置いて、子どもの側に立ち続けるという姿勢そのものについて考えてみてください。
なお、発達障害の子ども時代を振り返った当事者の気づきについては、別の記事でも整理しています。発達障害の子ども時代を振り返った当事者の気づきも合わせてご覧ください。
当事者として考える、「味方であり続ける」ことの定義
「味方でいたい」という気持ちは、多くの親御さんが持っています。子どもを叱ったあと、「さっきの言い方はきつすぎたかもしれない」と一人で反省したことがある方も少なくないはずです。
ただ、「味方である」という状態が具体的にどういうことを指すのかは、意外と言語化されていません。
私自身の経験から感じているのは、「味方である」とは「正しい答えを出し続けること」ではないということです。子どもが何かに困ったとき、すぐに解決策を示せなくても、味方ではいられます。
それよりも、「この人は自分の側にいる」という感覚を子どもが持てるかどうかが、味方かどうかの分かれ目に近いと思っています。
私には幼稚園からの幼馴染がいます。その関係を振り返ったとき、「味方だ」と感じた理由は、彼らがいつも正しい対応をしてくれたからではありませんでした。「障害があるからできない」という枠で見ることなく、叱るときも褒めるときも率直に伝えてくれた。できないことがあれば「じゃあこの方法はどう?」と一緒に考え、諦めずに付き合い続けてくれた。私はその関わりから、「一人の人間として一緒に考えてくれている」と感じていました。
この経験から、「味方である」というのは、こういうことなんじゃないかと思っています。
「味方だと感じるかどうか」は、一つの言動だけで決まるものではありません。
私の場合、子どもの頃は「怒らず、褒めてくれること」、つまり相手の言葉そのものが味方の基準でした。
ですが、大人になった今は違います。「困っていることや悩んでいることに気づき、一人の人間として接してくれること」、つまり相手の行動が基準になっています。私は、言葉だけでなく行動で示してくれる人を信用できると感じています。
当事者の経験から考える、子どもが「親を味方だ」と感じる関わり方
私の経験から言えるのは、「味方だ」という感覚は、相手がいつも正しく対応できるかよりも、変わらずそばにいてくれることから生まれるということです。
私がうつ病になり、家に引きこもって友人からの連絡も遮断していた時期にも、幼馴染たちは「家にいるのわかってるからさ、飯いこーぜ」と諦めずに声をかけ続けてくれました。食事代も出してくれた。当時の私は、「めんどくさいな……まあ奢ってくれるならいいか」という気持ちで、少しずつ外に出るようになりました。
そうした関わりが続くなかで、彼らから「俺らはお前を裏切らないから」という言葉が出てきました。今振り返ると、言葉にする前から、ずっと行動で示してくれていたのだと思います。
この経験から、子どもが「親を味方だ」と感じる関わり方について、私なりに気づいたことをいくつか挙げてみます。
「正しい答え」より、そばにい続けること
引きこもっていた時期、幼馴染たちは「どうすれば立ち直れるか」という正解を提示しようとしたわけではありませんでした。ただ、諦めずに声をかけ続けた。その行動が、「この人たちは自分を見捨てていない」という感覚につながっていました。
子どもが困難な状況にいるとき、親は「何か正しいことをしなければ」と焦ることがあります。今日も一日、子どものために何ができただろうかと自分を採点してしまう方もいるかもしれません。ただ、子どもの側から見ると、正しい対応よりも「この人はここにいる」と感じられることのほうが、安心につながる場合があります。
「何もできていない」と感じるときでも、
子どもの側にいようとする姿勢は、それだけでも子どもにとって支えになります。
私にとって、それはやはり幼馴染たちでした。「発達障害だから」「うつ病で引きこもっているから」「不登校だから」という背景を、良い意味で気にせず、一人の人間として気を使いすぎずに接してくれたこと。何気ない会話に付き合ってくれたこと、私の好きなことに付き合ってくれたこと、弱音を吐いても背中を押してくれたこと。そうした「いつも通り」の関わりに、私は一番助けられました。
逆に一番しんどかったのは、「大丈夫?」という気遣いの態度や言葉でした。
心配されることよりも、変わらず接してもらえることのほうが、私にとってはずっと救いになっていたのです。
子どもの感じ方を受け止める、「否定しない」ことの意味
幼馴染たちが私にしてくれたことの一つは、「障害があるからできない」という枠で見ないことでした。できないことがあれば「じゃあこの方法はどう?」と一緒に考えてくれた。「できないのは仕方ない」と諦めるのでも、「なぜできないのか」と責めるのでもなく、一緒に方法を探そうとしてくれました。
「否定しない」というのは、何でも許すことではありません。子どもの感じ方や反応を「おかしい」「大げさ」と切り捨てないということです。感じ方を認めることと、行動の結果に向き合うことは、別の話だと思っています。
子どもが「こう感じた」と伝えたとき、その感じ方を否定され続けると、次第に伝えることを諦めてしまう場合があります。「この人には話しても無駄だ」という思いが積み重なると、親子の間に距離ができてしまうこともあります。
私は、発達障害が「見えない障害」であるがゆえに、自分の感じ方を否定された経験を数多く持っています。聴覚過敏で「この音、うるさくない?」と伝えても、「そうでもなくない?」と流されたこと。体調不良を伝えても「どう体調が悪いの? 発達障害の体調が悪いって何?」と返されたこと。学生時代は、父親にやることなすことすべてを否定され続けました。不登校になった選択を「弱い奴のする行動だ」と言われ、行きたい専門学校の話をすれば「そんなところに行っても意味がない」、その後、大学へ編入したいと話せば「就職したくないから逃げているだけだろう」と返されたこともあります。
子どもの頃は、「何をやっても否定されるならやりたくない、かといって言う通りに生きるのも嫌だ、なぜ親なのに背中を押して応援してくれないんだ」という気持ちを抱えていました。
その影響は今も残っていて、否定的な言葉を向けられると「この人に話すのはやめよう」と、無意識にその人を避けるようになる自分がいます。
傷ついた経験から学ぶ、「味方だと感じなかった」関わり方
「味方だと感じなかった」具体的な場面を一つに絞ることは、私にとって簡単ではありません。傷ついた記憶は、一つの出来事というより、積み重なった感覚に近いからです。ただ、振り返ってみると、相手を味方だと感じる基準は年齢とともに変わってきました。子ども時代は「言葉」で、大人になってからは「行動」で、私は相手を信用できるかどうかを判断するようになりました。
私は学生時代、「自分に本当の友達なんているのだろうか」と悩んでいた時期がありました。その奥には、「本当に自分の側にいてくれる人はいるのだろうか」という不安があったのだと思います。
子どもが「味方ではない」と感じるとき、それは相手が悪意を持っていたからとは限りません。関わり方の意図と、子どもへの伝わり方がずれていることがあります。「こういう関わりが子どもにはこう伝わっていた」という視点で振り返ることが、関係を立て直すきっかけになります。
もし「自分もやってしまっているかも」と、この記事を読んで胸がざわついたとしても、それは責める材料ではありません。気づけたこと自体が、次の関わり方を変えるきっかけになっています。
子どもが親に本音を話せなかった理由については、不登校経験者が当時の気持ちから詳しく語っています。子どもが親に本音を話せなかった理由を当事者が語った記事も合わせてご覧ください。
関わり方がうまくいかないと感じたときの、子ども側の視点と立て直し方
親が「うまくいかなかった」「間違えてしまった」と感じたとき、子ども側はどう受け止めているのか。ここからは、私自身の経験を振り返りながら考えます。
一つ言えるのは、「完璧な関わり方を続けること」が味方の条件ではないということです。幼馴染たちとの関係も、常にうまくいっていたわけではなかったはずです。それでも関係が続いてきたのは、うまくいかないときに離れなかったからだと振り返っています。
「謝ること」「やり直そうとすること」は、子どもに「この人は自分との関係を大切にしている」と伝える行動です。今日、感情的に叱りすぎてしまったと感じても、それだけで「味方でなくなる」わけではありません。完璧でなくても、関係を立て直そうとする姿勢は、子どもを大切に思っていることの表れになります。
正直に言うと、私は子どもの頃、親の気持ちを少しも感じ取ることができませんでした。発達障害の特性が強かった当時は、周りの気持ちまで考える余裕がなかったのだと思います。大人になってようやく、「あのとき親もいっぱいいっぱいだったんだな」と気づけるようになりました。これは親を責めるためではなく、「当時の自分には分からなくて当然だった」と受け止めるための気づきでもあります。今は伝わっていないように見えても、成長してから親の気持ちに気づくこともあるのだと思います。
親が疲弊しないために、子ども側から伝えたい考え方
毎日の家事、仕事、通院や療育の付き添い、学校とのやり取り。それらを一人で抱えながら、それでも「もっとちゃんとしなければ」と自分を追い込んでしまう方は少なくないはずです。周りの家庭と比べて、「うちだけうまくいっていない」と感じてしまう夜もあるかもしれません。
一つ、今も変わらず思っていることがあります。幼馴染たちへの一番の恩返しは、私が前を向き、自分の足で生きていくことだと感じるようになりました。支えてくれた人たちには、自分をすり減らしてまで私を支えてほしいわけではありません。この思いは、親子の関係にも通じるところがあると感じています。
子どもは、親が思っている以上に、その表情や余裕のなさを感じ取っていることがあります。だからこそ、親が自分を大切にすることは、わがままではありません。子どもと関わり続けるためにも必要なことです。「完璧な親でなければならない」という考えを手放すことは、長く味方でいるための現実的な選択だと思います。誰にも弱音を吐けず、一人で抱え込んでいるとしたら、その気持ちを少し外に出すことも、子どもの味方であり続けるために必要な一歩です。
親の疲れや苦しさが自分にどう伝わっていたのか。正直なところ、子どもの頃の私は理解できていませんでした。そして大人になった今でも、理解しきれないことはたくさんあります。それでもいいのだと、私は思うようにしています。
教師・支援者など、親以外の大人へ伝えたいこと
この記事で整理してきた「味方であり続けるための姿勢」は、親以外の大人、教師や支援者にも同じように当てはまります。
「一人の人間として一緒に考えてくれる」という感覚は、学校や支援の現場でも子どもに伝わります。「障害があるからできない」という枠で見ないこと、感じ方を否定しないこと、うまくいかないときも離れないこと。親、教師、支援者と立場が変わっても、大切にしたいことは同じです。
私は、学校の先生を「味方だ」と感じたことは一度もありません。子どもの頃は専門の支援者がついていたわけでもなく、親以外の大人を信じられた経験はほとんどありませんでした。
ただ一人、児童館のスタッフだけは別でした。私のために実際に行動してくれたこと、「ありがとう」という言葉を数えきれないほどかけてくれたこと。それが、私にとって生まれて初めて大人を信じられた経験になりました。
おわりに:「味方であり続ける」ことは、完璧でなくていい
この記事を通じて伝えたかったことは、一つです。「味方であり続ける」ことは、いつも正しい対応をすることではありません。子どもの側に立ち続けようとすることが、味方であることそのものだと思います。
私が幼馴染たちを「味方だ」と感じてきたのは、彼らがいつも完璧だったからではありません。彼らと「一緒に歩いている」と実感できるようになったのは、私自身が地に足をつけ、自分の頭で考えて人生を歩み始めてからでした。そして、幼馴染たちへの一番の恩返しは、私が前を向いて自分の足で生きていくことだと思うようになりました。そう思えるようになったのは、彼らが私を諦めずにいてくれたからです。
完璧な親でなくても、味方でいられます。今日、うまく笑えなかった日があっても、明日も子どものそばにいようとする。その姿勢を持ち続けることが、長い目で見たときに子どもに伝わるものです。
関わり方について専門家や支援機関に相談することも、一つの選択肢です。一人で抱え込まず、必要なときに外の力を借りることは、子どもの味方であり続けるための現実的な手段でもあります。

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